「さあて、お楽しみといこうかい?」

ゴウゴウと北風が吹いている。ここは今、突風の檻だ。

翻る錦の着物の裾と、離脱直前のヘリコプター、不敵に笑っている森準一郎、捕らえられた呉の姿。

薙はレイピアの切先を構えたまま、油断無く睨みつけている。

ただ一人きり月詠に潜入して、そこで呉と合流を果たした。

彼女は気丈にも、まだ捕縛の手を逃れて、彼女にすら知らされていなかった月詠の機密を調査していたらしい。

真実は地下だと告げられた、そこで知った、おぞましい真実。

(この身の内に)

みなぎる験力がそれを知らしめる。

(あの化け物たちと同じものが、仕込まれているのか)

イヅナという名の試験体の一つは、悠々と扇をひらめかせてこちらを眺めている。

森達を逃すため、彼女がしんがりを務めるようだった。

コンクリートの上からゆっくり離脱していくヘリコプターの姿に、薙は奥歯を噛み締める。

イヅナがほほと嘲笑を洩らしていた。

「愚かで可愛らしい坊やだこと、年上好みなら、あたしが相手をしてやるから元気をお出し」

「くだらない冗談など、聞くつもりは無い」

「ふん、女を知らないのかい?可哀想に」

細身の体から妖力がみなぎっている。

イヅナはひらりと扇を上げた、振り下ろすと、数体の天魔が彼女を取り巻くように出現した。

「こやつらを退けられたなら、わらわが手取り足取り、密の味を教えてやろうじゃないか」

子供は子供らしく、玩具で遊べ。

スッと伸ばした腕の、合図を皮切りに異形は鋭い爪を振り上げ、奇声を上げながら薙に飛び掛ってくる。

それらをかわし、攻撃を繰り出しながら、薙はイヅナの様子を伺っていた。

「ほほほ、舞えや舞え、ああ楽しい、男の子の舞は見ものよのう」

隣接した身体を切り裂いて、切りつける先端をレイピアで防ぐ。

その背後から強烈な打撃を受けて、吹き飛ばされた先で待ち構えていた太い腕が反対側に殴り飛ばした。

「どうしたボウヤ、踊りは終いか、なんぞ、つまらぬぞえ」

揶揄する声と共に、牙が薙の片腕を噛み砕く。

激痛に思わず悲鳴をあげると、再び笑い声が響き渡っていた。

(く、くそ)

多勢に無勢とはこの事だ。あまりに―――一人きりで相手をするには、数が多すぎる。

感情に任せて考えなしになっていたことに薙は初めて気が付いていた。

感情?僕が?

まさか、憤りや怒りだけで、先走っていたというのか。

そのまま振り飛ばされて、視界を流れる大量の鮮血を眺めながら、信じられない気分で呆然としていた。

僕に感情などというものは無い。

そんなものは、随分昔になくしてしまった。

かつてはあったようにも思うけれど、披検体としてデータを取られるうちに枯渇して消滅してしまった。

今の僕は効率性ばかり重視する、中身のない張りぼてだ。

この女や、あの男と同じ、化け物の遺伝子を組み込まれた、人の手によって創り出された、戦うだけの人形だ。

コンクリートに激突した瞬間、今年の思い出が胸をよぎっていた。

あの日、初めて出逢った、秋津豊の事。

ぼんやりしたどことなく頼りない少年だと思った。童顔で、未成熟な身体をしていて。

考え方や行動も無駄ばかりだったように思う。

気になって仕方なかった。

どうしてそんな風に考えるのか、どうしてそんな選択をするのか、どうしてそんな顔で笑う、そんな声で喋るんだ、君は、どうして。

知りたいと思って、強引に奪い続けて、奥まで探ろうとしたけれど、結局何もわからなかった。

ただ怯えさせて、傷つけてしまった。

天魔が肩を踏みつける。

骨の砕ける音がした、薙は呻き声を上げた。

「おやおや、糸が切れてしまったようだねえ、これじゃあもう遊べないか」

女の声だ。

最後まで僕は、結局わからなかった。

君が何故怯えるのか、何故悲しげな顔ばかりしていたのか、何故―――あの時泣いていたのか。

片腕はすっかり使えなくなってしまった。

血液が足りない。

これ以上の戦闘は不可能だろう。

天魔の一体が薙を掴みあげて、もう一体がまだ使えるほうの腕を強く掴んだ。

グッと引かれる感触に、ああ、腕を引きちぎるつもりなのだなと鈍い思考が働いていた。

痛みなら、すぐ紛れる。

けれど胸に残るあの涙の影だけ、いつまでたっても消えてくれない。

最後に豊の事を考えながら終わるのは、とても自然な事のように思えた。

もう一度会って、ちゃんと話したいと、初めて思った。

(今更、か)

こんなに効率の悪い自分など見た事がない。

薙は薄く微笑んだ。

引く力が徐々に強くなって、骨や肉が悲鳴をあげ始めた。

これから訪れるだろう激痛に、せめて気絶すまいと奥歯を噛み締めた、その時だった。

―――弾かれるように開いた扉と、飛び込む気配。

一瞬たじろいだ腕の感触に、薙はそろそろと首を向けて、そして瞠目していた。

「あ、きつ?」

そこにあった、豊の姿。

すでに戦闘を潜り抜けてきたのか、あちこち傷ついている。

その場に立ち止まって凝視したのは本当に瞬間の出来事で、直後に彼の全身から験力が爆発するように溢れ出していた。

勢いに圧されてぐらついた天魔たちが薙を取り落とす。

そこへ、殺到した彼の魂神がいななき、神々しい輝きを放つ蹄で全て蹴散らしてしまった。

倒れて呻く薙の傍らに、豊が駆け寄ってくる。

―――願っていた、望んでいた、この姿に会いたいと思っていた。

(幻なんじゃないのか?)

抱き起こされて初めて気づいた、豊は―――泣いていた。

涙が幾つも顔の上に降ってくる。

薙は不思議な気持ちでそれを見ていた。

やはり、君の事はよくわからない。どうして泣いているんだ、何故、ここへ来た?

「飛河、どうして」

「それは僕の、聞きたいこと、だ」

豊は一瞬驚いた顔をして、そして微笑んでいた。

「良かった」

―――君の笑顔を、初めて見た。

「ふふ、迷い子がもう一人」

イヅナの声に、豊がハッと顔を上げる。

薙も緩々と首を向けた。体中が痛覚に支配されていて、この程度の動作も容易でない。

「そなたも舞え、わらわを楽しませてたもれ!」

扇を一振りすると、衝撃波が生まれて押し寄せてくる。

ハッと瞠目した豊が、薙を庇うように体の向きを変えようとした。

それに気づいた瞬間、薙は、自分でも訳がわからないまま、渾身の力でそれをさえぎって、自身の身体を差し出していた。

「ぐあああっ」

背中に走る激痛。

目の前で唖然としている豊の姿。

更に続けて数発撃ち込まれて、衝撃が去るのと同時にかすかな舌打ちが聞こえたような気がした。

「壊れ物なぞつまらぬでは無いか、気の利かぬ男の子よのう」

薙は血塊を吐き出して、グッタリと豊の腕の中に倒れ込んでいた。

「ひ、飛河、飛河!」

必死の声が聞こえてくる。

今度こそ本当に終わりだろう。俺は、どう足掻いてもこれ以上は戦えない。

それでも何とか顔を上げて、言うべき言葉を伝えようと思った。

君に余計な罪悪感なんかを背負わせるための行為じゃない、これは、僕個人の勝手な意思だ。

「あ、きつ」

「飛河ッ」

「逃げろ、君、一人きりで、どうにか出来る相手じゃ、ない」

「そんな事」

「頼む」

豊がはっと目を見開いた。

「君が傷つく姿を見るのは」

あの、涙のようなものを見るのは、もう。

「すまない」

勝手に言葉が零れ落ちていた。

今までのこと、そして、今起こること。

―――以前の借りは、これで返せただろうか?

血塗れた指を頬に這わせる。

鳶色の瞳から涙があふれて、また一筋伝った。

悲しい顔をしているのに、どうしてこんなに綺麗に見えるんだろう。

豊は泣き続けている。

朦朧としていく意識の中、どうすればもうこれ以上泣かせずに済むだろうかと、薙は考えていた。

震えていた唇がかすかに動いた。

「ダメだ」

豊の声だ。

「もう、これ以上はイヤだ、絶対に、誰も、死なせない」

薙はもう声も出ない。

飛び飛びの意識を何とかつなぎとめて、最後の瞬間まで姿を瞳に焼き付けておこうと、じっと豊を見つめている。

「飛河がいなくなるなんて嫌だ、そんな事、誰にもさせないッ」

―――あれだけ傷つけたというのに、まだそんな甘い事を言うのか、君は。

バカだな。

愚かで、浅はかで、そして―――なんて愛しいんだ。

(ああ)

そうか。

胸の奥で何かの欠片がカチャリと音を立てたようだった。

豊の全身から青い光が炎のように立ち上っていた。

直後にそれは強烈な光量と質量を伴って、背後に輝く牡鹿が姿を現す。

辺りの禍々しい気配たちがひるんでいるのがわかる。

慈悲深い瞳で見下ろしている、牡鹿と豊から降り注いでくる光は暖かくて、瞳を閉じると痛みの一つ一つが消滅していくようだった。

薙は、そっと目を開ける。

そして気づいた。あらゆる傷が全て完治していた。

まだ泣いている豊の赤く汚れた頬をもう一度そっと撫でると、更に大量の雫が手の上に降り注いできた。

「秋津、泣くな」

そのままゆっくりと立ち上がる。

握り締めていたレイピアを、もう一度構えなおした。

魂神の気配が消えた直後、イヅナが扇を振って天魔を出現させた。

忌々しい表情でこちらを睨みつけている。彼女も、何かを感じ取っているようだった。

「おのれ、童め」

隣で豊が立ち上がるのと、再び屋上の扉が開かれるのとは、殆ど同時だった。

飛び込んできた執行部員達と、ペンタファングの面々が一様に驚いた声を上げている。

「ゆんゆん!何泣いてんねん!それに血まみれや、飛河も、なんで」

口早にまくし立てる御神を片手で制して、薙は豊を振り返った。

「秋津、やれるな?」

こちらを振り向いた豊は、濡れた双眸をぐいと掌でぬぐった。

涙はもう消えた。唇を結んで、しっかりと一度だけ頷き返してくる。

薙はもう一度頷いた。

「ならば行こう、ツケを、払ってもらうぞ」

身構えた二人の姿に、他の者たちも一様に戦闘体制に入ったようだった。

イヅナが笑う。

「ほほ、童が幾ら集っても同じこと、蹴散らしてくれようぞ!」

扇を振る。

豊と薙は、同時に駆け出す。

月詠学院高校の屋上にて、験力の嵐が巻き起こっていた。